深呼吸をする。

昨日は久しぶりにキツイなぁ…と思う一日だった。
ひと晩経って、自分よりハイスペックな人からのバッシングは仕方ないよなーと思えるまでに落ち着いた。

自分がこれまでに学び知りえたことでも「一般的ではない」だけで間違いと等しい扱いをされることに衝撃を受けた。つまり、本来の「正しいか?間違いか?」が問題ではなく、支持の多寡によって決まるということ。たとえ地球がまわっていても天動説は正しいんだ、と。なんだそれ。
天動説(と地動説)を例えにするのはどうかと思ったものの、気持ちの落としどころを見つける助けになった。地が動いていることを「理解できない」のではなく「理解しようとしない」「信じようとしない」相手には、どれだけ説いても無駄な気がした。
「知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」というけれど、そもそも恥の概念がない人は「知らないことは恥ずかしい」とも思わないわけで。余計な老婆心は持たないほうが身のためだ。あ、そもそも老婆心が余計なことか。頭痛が痛いと一緒だね。あーこりゃこりゃ。

実のところ、コトの正誤よりも尊敬していた人たちに自分の意見を否定されたことが一番ショックだった。皆わたしよりハイスペックな人だし、人望もありファンも多くあこがれる部分もいっぱいある。そういう人たちから自分に向けられた「キチンと説明の出来ないことは意見するな」というのは冷静に考えればありがたい叱咤なのに、パニックになって理解するまで時間がかかってしまった。反省。

一方で、嬉しいこともあった。拙い説明ではあったものの、私の意見を「間違ってないよ」「正しいと思うけど?」と言ってくれる人もいた。方法は間違ってたかもしれないけれど、私の知見は間違いではなかったようだ。

ソーシャルネットって難しい。

SNSって色々やってきたけど、難しいなぁ…と思う。
mixiの頃は足跡つけたら何かコメント書けと言われ、書いたら書いたでそのことに文句言われたり。facebookになって足跡を気にしなくてよくなったかと思いきや「いいね!」をつけてもつけなくてもケチがつく。
言いたいことを言えばそう思わない人から反論されて、そのことについて議論してるうちはいいけど、いつの間にか表現方法が気に入らないとか態度がどうとか、お題はそっちのけの感情論になってたりして。じゃぁ日々の食事くらいなら…と載せてみれば「毎日毎日飽きもせず食事の写真載せて。こちとら見たくもないのに」と言われ。

結局、何書いても何載せても文句言われるんだ。

愚痴をこぼせば「気が滅入ることしか書かない」「チラシの裏に書け」と言われますよ?
それならば!と気持ちを奮い立たせて楽しいことや気持ちがあがるようなこと、うっかり日々是感謝みたいなことを書けば「ハイカロリー」とか揶揄されます。

ネットにおいては「沈黙は金」なのかなぁ…と思う。ホント。
物書きかカリスマ性のある文章をつむげる人でない限り、たいてい叩かれる気がする。

つまらないことや取るに足らないこと書いたって赦してくれるようなぬるいフィールドがもう少しあってもいいんじゃないかなぁ…と思うのだけど。あらゆる角度で叩かれすぎてる私みたいなのは切に願いながらこうして独りごちるしかない。
ホントいろいろごめんなさい。

先見の明

周りの人たちがとうに見切りをつけて離れた人に対して、私は「別の角度から見たらまた違うかもしれない」「これから何か変化が起こるかもしれない」と様子を見ていた。
しかしながら、人の性格や育ちはそうそう簡単に変わるものでもなく。もちろん人のことだけあげつらうつもりはなく自分だって同様だと思う。

少し距離を置こう…そう思った時に、みんなには「先見の明があったのかな?」と思った。

判断力

一年経つ前に日記を書こうという思いに至った。とるにたらないことでも、書いておいたら何かの糧になるかもしれない。ならなくても想い出。

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時おり知人のブログをのぞく。
そんな時はたいてい、自分が迷っている時か立ち止まっている時のような気がする。
昔と違って巡回するのは片手に余るほどだけれど、それぞれの日常…悲喜こもごもの日々を眺めては、自分の気持ちを仕切りなおすような感じ。
落ち込んでいる時ってどうしても自分を過小評価したり、どうして私ばかりこんなイヤな目に遭うの?!と思ったりするけれど、当たり前にみんな楽しいこともイヤなこともあるんだ…ってわかるとツキモノが落ちたように?俯いていた自分が前を向けるようになる。

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「考えればわかることでしょう!」というセリフがある。
単純明快に答えが出せる(出ている)こと。

とある問題に対して、私は答えが出ていた。
なのに、それを断言できない不安から「みなさんはどうですか?」と訊いた*1ら予想に反して少数派のほうが声高だったばかりに、私は混乱してしまった。
知人に「正しいものは正しい、間違いは間違い。多寡で決めずにダメなものはダメと自分で判断しよう」と言われて我に返った。
そうだよね。自分で判断できることだったよ。

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自分で判断できることなのに、否定される怖さに臆病になりすぎてた。
判断に迷った時は、なくしかけてる自信を取り戻すことから始めよう。

*1:観測範囲を広げることで確証を得たかった…と一応言い訳してみる。

しょうゆ皿を買った。

昨日、デパートの友の会*1の更新に行ったついでに、WEDGWOODでしょうゆ皿を衝動買いした。
ワイルドストロベリーはいくつか持っているものの、和食器は珍しいこと、5枚のお皿の絵柄がすべて違うことで即決、即買い。ちょうど優待セールで10%offだったから「賢い買物」ってことにしておく。何より私のお料理のモチベーションがちょっとあがると思えば、win-winの関係になるのではないかと思う。<何がなんだか。

今までなんとなく流行や友人知人の持っているものに影響されて買った食器もあったけど、結局のところ高価安価関係なく自分が納得して選んだものでなければ食器棚のこやしになるのだな…と思う。同じ北欧の食器でも、Aという銘柄は毎日使うのにBという銘柄はほとんど出番がない。

「人さまに出しても恥ずかしくない食器」ではなく、自分が使って楽しい、見て嬉しい食器をひとつずつ増やしていこうと思う。

*1:毎月一定額を積み立てて、一年経つと一年分+一ヶ月ボーナスのプリペイドになって返ってくる。このご時世、こんなに高利率の貯金ないし贈答品の臨時出費があっても痛くないので助かってる。

日傘とピアス

ここ数年の夏の暑さって本当につらい。
酷暑だからつらいのか自分の耐性がなくなって軟弱になったのかわからないけど、体調をくずさないことを重視して、これまで買ったことのない日傘を買うことにした。

傘を買う時は「高いものは買わない」というマイルールがある。何度か盗まれたことがあったり、取りに戻れない場所に限って傘を置いてきてしまったり…気に入った傘ほど失くしてしまうのだ。
今回は、母が商品券をくれた+デパートのセール期間というラッキーが重なって、ラルフの傘をgetした。このところ傘(折りたたみ)を新調することがなかったから、軽量化の進歩にビックリした。これなら持ち歩くのも苦にならない。

マイルールといえば、ピアスもそう。「高いものは買わない」ようにしている。
対になっている片側がなくなる分には(私は片耳だけなので)問題ないけど、なんにしてもよく失くす。アメリカンタイプ(キャッチのないチェーン状のピアス)が好きなのも一因かもしれないけれど。
でも、ピアスって高価なものでなくても可愛いのたくさんあるし、おもちゃっぽいのも好きだったりして、私のなかで需要と供給のバランスみたいなのが釣り合っている感じがする。
個人的な観測範囲だけど、最近アメリカンタイプってちょっと減ってる気がする。流行りすたりなのかなぁ…あまり流行っちゃうとまた没個性かも?って思ったり、難しいところ。

抜けた。

桜の季節がもうすぐ終わる。遅咲き以外はかなり葉桜になってきた。
一般的にははらはらと散る桜を惜しんで憂うのかもしれないけど、私は葉桜になりはじめると少しずつテンションがあがってくる。
もやもやしていた気持ちもクリアになってくるので、ずっとためらっていたことにも踏ん切りがついたりする。迷いに迷っていたことにストンと答えが出たりする。
今年も春のトンネルを抜けたようだ。