私の思うボランティアやノーマライゼーションとか。

昨今話題になっているLCCの話題*1を通じて、ふと気がついたことを書いてみる。例の件はあくまでもきっかけであり、その話をここで展開する気はない。そして考え方やとらえ方は人それぞれだと思うし、優劣や正誤をつけようというものでもないので、くれぐれも誤解なきよう。

ボランティアや福祉の話題で「いつ自分も同じ状況になるかわからない」「身近な人がいるので」というのが関心をもつきっかけ…というのを少なからず目にする。私は(今はさほど活発に動けていないけれど)ボランティアで手話を学び使う機会があった。しかし、前述のような理由から始めたことではなく、興味や好奇心からだった。外国語を学ぶのと同じように手話を覚えて聴覚障がいがある人たちとも会話がしたい、円滑にコミュニケーションがとれたら楽しいだろうな、さらには友だちが出来たら嬉しいな…といったお気楽なものだった。
手話を学んでいくうちに、ろう者の被差別の歴史やことばの教育…口話法や他の会話法が色々あること…日常生活の苦労も知った。そんな過程を経て、ボランティアやノーマライゼーションについて自分なりのスタンスが出来た気がする。

(聴覚)障がいがあることを「特別扱い」や「ハレモノ扱い」するのではなく「ちょっと気にかけとく」。

障がいがあることは、その人の特徴(個性)であって、可哀想なことではない(と思ってる)。なので哀れみで何かすることはない。たとえば歩くのが速い人と遅い人がいて、私が速かったら遅い人と離れてしまわないように気を付けとく…みたいな。

何を手伝ってほしいのか?何に困っているのか?がわからなかったら訊く。

こう書くと当たり前すぎておかしいけれど、どうせ手伝うなら見当違いや的外れなことをするよりは、どうしてあげるのが一番か訊いてそうしてあげるほうがいいと思う。かゆいところをかいてあげるのと一緒。

自分を犠牲にすることはしない。我慢とか辛抱してまで何かをすることはしない。

これはボランティアだから。賃金も発生しなければ見返りもないし、雇用関係でもない。出来る範囲で出来ることだけ。10あるお手伝いを私が独りで10担う必要はない。

私が手伝うことで不便さや苦労が軽減されることがあれば引き受ける。そうでなければ断る。

前述の続きっぽいけど、私の力量を越えてる、あるいは私の手伝いでは解決できなさそうな事なら、その旨を伝えて断る。それはみはなすことではなくて、もっと上手にできる人がいればその人にまかせたほうがいいだろうし、出来もしないことを引き受けて残念なお知らせをするのはお互いにハッピーじゃない。私に多大な期待をされても困る。w

もしかすると、この考え方の中に差しさわりがある部分があるのかもしれないけれど、ボランティアって楽しいことが結構ある、って今まで思ってやってきてるので、まぁこれでいいのかなぁ…と。

*1:障碍者の搭乗可否問題