<イヤな想い出はイヤなままにしない>


最近、自分のネット生活のきっかけになったチャットを再びしている。
初めは「こういうのに慣れたら、タイピングが早くなるかな?」なんていう気持ちと
「PCって全然わかんないから、困った時に誰か教えてくれる人がいたらいいな」とか、
そんなのがきっかけだった気がする。
もちろん、「人間」が好きな私は「コミュニケーション」に対する興味も多分にあったけれど。


そして、私はしばらくしてチャットから遠ざかることになる。
理由は、チャットの楽しさ以上に虚しさが強く感じられるようになってしまったから。
たとえば会員制とか、何かしらのパスワードを入力することにより特定の人たちと会話する
クローズ(プライベートともいうのかな?)なチャットルームなら、それほど
そういう思いは感じなかったかもしれない。
私が出入りしていたのは、プロバイダとかネット広告や検索エンジン系の
オープン(ルーム)だったから出入りが自由な分そこに「とどまる」ひとも少なかった。


オフライン(実生活)において、いったん自己紹介までして知り合った人ならば
親しくなるかどうかはさておき、何かしらのコネクションが残る。
オンラインのそれは、みかけなくなったらそれっきり。
来なくなることの挨拶もなければ、去ったものを深追いもしないのが常だ。


「せっかく何かの縁があって知り合ったのに」と私は思ってしまう。
先日、弟が6/25の日記で「運命ってさ…」なんてことを書いていて感慨深かったけれど、
私も、どこかで誰かと知り合うのって「縁」という運命にプログラミングされてると
思えて仕方がない。
それが、チャットにおいては希薄なものばかりが目に付いた時、
「もういいや。」と思ってしまったから。


そして、何年か経ったいま。
またチャットをしている。「懲りもせずに」と言われるかもしれない。
でも、以前よりは少し捉え方も変わり、一部分では「あっさりした付き合い」も
それはそれでアリなのか…と思うようにもなった。
実際、知り合った人全てとディープな付き合いをしていたら、自分の時間がなくなるし
身体がもたない。(理解の浅い人のために「肉体関係ではない」と付記しておく)
と同時に。
どこかで「こういうコミュニティで人にめぐりあうことだって捨てたもんじゃない」と
自分がかつて感じた落胆や諦め、そういった想いを塗り替えようとしているからだ。
人に会うきっかけを自分で制限してしまいたくない、そんなところか。


「イヤな思いをしたところ(イヤな思い出のあるところ)には二度と行かない」より
あえてもう一度行って「そっか。悪いところじゃなかったんだ」と思いたい。
そんな気持ちが私はわりと強いような気がする。


それにしてもまとまりのない文章だなぁ…。
小気味よくまとまった短い文章を書けないのか、私は。